エイサーの生成について
2009.03.15 琉球風車の合宿 於:沖縄県青年会館
具志堅 邦子&具志堅 要
1.エイサーの祖形としての似せ念仏
エイサーとは何かということを考えると、中世日本から渡来した〈似せ念仏〉と、沖縄の基層文化である来訪神祭祀としての〈モーアシビ〉が、近代化において合体し、再構築されたものがエイサーであるといえる。
似せ念仏は念仏聖とよばれる下級僧侶たちの渡来によってもたらされた。下級僧侶たちは葬式で念仏を唱えるときはニンブチャーと呼ばれ、門付け芸をみせるときはチョンダラーと呼ばれた。
このニンブチャー・チョンダラーの芸能のなかから似せ念仏が伝播したものとみられている。
『那覇横目条目』(1733年)や『親見世日記目録』(1758、59年)によると、似せ念仏については「喧嘩口論をしてはいけない」「派手な格好をしてはいけない」「門の前で覆面のまま指笛を吹いて歌を歌い、目立つおかしな格好で道路を徘徊してはいけない」「覆面をしたまま歌三味線をして人家に押し入ってはいけない」などと取り締まりをしている。禁止されるということは、これらのことがすべてなされていたわけである。これからすると、そうとうに派手で荒々しい芸能であったようだ。(池宮正治「エイサーの歴史」より要約)
「かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチュウ)の渡海があつたものと見てよい」折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』中公文庫
似せ念仏の似せはニーセー=青年という意味である。つまり若衆念仏である。これがエイサーの祖形であるが、現在のエイサーとはずいぶん形は異なる。似せ念仏では説教節などの物語歌が歌われるようである。遊び歌はない。
この似せ念仏は首里・那覇を中心に広まったのであるが、近代において、ほとんど生きのびることができなかった。本家本元である首里・那覇ではその痕跡すらも残っていない。 島尻地方のいくつかの集落はその痕跡が残っているが、近代化が進むとともに消滅していく傾向があったようである。現在残っているいくつかの地域では説教節の長い物語歌はなく、その痕跡だけである。
エイサーという芸能は近代以降、中北部を中心に普及・発展した。中北部を中心に発展したエイサーはモーアシビエイサーといわれるものであった。そのエイサーでは説教節のさわりの部分だけが残され、歌のほとんどはモーアシビ歌となっている。
私たちがイメージするエイサーというのは、このような説教節の痕跡が残り、ほとんどはモーアシビ歌であるエイサーである。その意味ではエイサーは近代になって再構築された芸能であるとみることができるであろう。 ニンブチャーたちの念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマだった。
たとえば、〈継親念仏(ママウヤニンブツ)〉では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇ろな供養を頼む。歌は43番まである。
〈長者の流れ(チョンジョンナガリー)〉では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾する。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘ると、そこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まである。
2. ヤガマヤの残る地域にエイサーは普及発展した
では、なぜエイサーは中北部において普及発展し、南部では発展しなかったのだろうか。その謎を説く鍵として、ヤガマヤという娘宿の存在が考えられる。沖縄県史によるとヤガマヤの存在は島尻地方においてはみられないということである。つまり近代において、エイサーが普及・発展した地域とヤガマヤが残っていた地域とは一致するのである。
「ヤガマヤ 沖縄本島中・北部地方およびその周辺離島にあった娘宿。ユーナビヤ、ブーナビヤともいう。気のあった娘たちが一定の場所に集まり、糸つむぎなどの夜なべをした。そこへ若者たちが遊びに来て、そのあと誘い合ってモーアシビへ出かけた。大正年間まであったという。宮古島にもトゥンガラヤーと称する若者・娘宿があった」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス社
「沖縄本島の南部島尻地方には、若者宿や娘宿があったということを聞かない。そのかわり、モウアシビという若い男女の夜遊びは、明治・大正の時代を通して盛んであった」『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』1972年、琉球政府
ヤガマヤとはどういうものであったのであろうか。それは未婚の娘たちが、アシャギや未亡人の「家」などに集まって糸つむぎ作業をすることであり、その空間をさした。そして娘たちが糸つむぎ作業をしているときに、三線などを持った未婚の青年たちが訪問し、作業が終わると、そこで未婚の青年男女によるモーアシビが行われたのである。
未婚の娘たちがアシャギや未亡人の家で糸つむぎ作業をするという構造は、神女たちが来訪神を迎えるために、神アシャギなどに籠もる儀礼と同じ構造である。神女たちは来訪神を迎えるとき、象徴的に処女にとなり、神の一夜妻となるのである。
つまり神女たちが忌み籠もるのは、神の妻としての処女性を獲得するためのものであった。それは神女たちが未婚の娘たちに変身するための通過儀礼であったのである。神女たちは未婚の娘に変身することにより、来訪神を迎えることができたのである。
ヤガマヤの娘たちはその意味では、神女組織よりも原初的な形であったとみてもよい。むしろ制度化された神女組織よりもはるかに古い起源をもつ可能性がある。
ヤガマヤが原初的には来訪神祭祀の構造であったとするとモーアシビの青年たちは来訪する神々でなければならない。
つまりモーアシビの青年たちは来訪神であり、ヤガマヤの女性たちは神の一夜妻であったのである。ヤガマヤが残っていた地域とは沖縄における来訪神祭祀の古層の文化を残していた地域だとみてもよい。その地域にエイサーが発展普及したのである。
3. 似せ念仏とモーアシビの再構築としてのエイサー
ヤガマヤにおけるモーアシビは近代における風俗改良運動の標的とされ、モーアシビの場所はヤガマヤからアジマー、モーへと変遷していく。教員と警官によりモーアシビは徹底的な取締りを受けるのである。徹底的な弾圧・取締りのなかで、モーアシビは社会生活の表面から姿を隠していく。
一方、近代において、土地整理事業が行われる。この土地整理事業により、私的所有権が確立され、それに基づく私有財産が発生する。発生した私有財産は継承されなければならないので、継承される「家」意識が発生してくる。その「家」意識のモデルとなったのが、位牌継承制であった。
そのため位牌継承制は近代において急速に民衆化していく。そこに祖先祭祀の需要がおこるのである。その需要を満たしたものが、モーアシビの青年たちだったのだと思われる。
「土地整理事業 近代的な土地制度と租税制度を確立するために、1899-1903(明治32-36)年実施された封建的な旧慣地制・税制の抜本的改革。旧来の農民保有地に私的所有権を認めるとともに、旧慣地租(現物納・石代納)を全国同様に定率金納地租に改め、所有権者をもって納税者とした」『沖縄大百科事典』
近代初期のころのエイサーは、現在のようなエイサー歌ではなく念仏が歌われていた。これは似せ念仏の系譜だということができるだろう。しかしモーアシビエイサーが発生すると、短期間のうちに念仏歌は短縮され、モーアシビ歌をメインとする歌に切り替わっていった。
「また、名護周辺でも明治の頃までは、エイサーの原歌である『継親念仏』が歌われており、現在のものは大正の頃に瀬底の人が広めた『毛遊び形エイサー』であることがわかった」宜保栄治郎『エイサーフォーラム』プログラム,1996年.
風俗改良運動によって取り締まりの対象となったモーアシビは、位牌継承制の民衆化により、エイサーのなかに活路をみいだしたのである。そして私たちがエイサーとイメージするものは、先ほど申し上げたように、似せ念仏の痕跡を残しながら、中身はモーアシビであるエイサーなのである。
つまり、私たちがエイサーとイメージする芸能は、中世日本から伝わった似せ念仏と沖縄の古代から伝わる基層文化としてのモーアシビが合体し再構築されたものなのである。その意味では、エイサーは近代において再構築された、新しいスタイルの芸能であるということができるであろう。
4. 連結都市圏に発生した締太鼓型エイサー
次に締太鼓型エイサーの普及発展について考えてみたい。
1945年から1955年までの10年間の間に、那覇市から浦添市、宜野湾市、嘉手納町、北谷町、沖縄市、旧具志川市と連なる地域に人口の集中が起こり、連結した都市圏が形成される。
この連結都市圏の形成は軍事基地により土地を奪い取られた人たちの集住と、軍事基地建設のために各地から流れ込んできた労働者たちの群居であった。
戦前の沖縄県は人口60万人未満で推移している(1940年国勢調査によると、沖縄県総人口は574,579人)が、そのなかにおいて都市とよべる存在は、那覇市と首里市ぐらいのものであり、あわせて8万人ぐらいの規模であった(1940年国勢調査によると、那覇市65,765人、首里市17,537人)。
それ以外は純然たる農漁村社会であったのである。その農漁村社会の住民たちが10年間というきわめて短期間に都市住民へと変貌した。これが沖縄における連結都市圏である。
この連結都市圏に集住した住民たちはシマ社会から出自したものたちであったが、この連結都市圏のなかに第二のシマ社会を形成することになった。ミクロコスモスとしてのシマ社会のなかに生きていた沖縄の人々が都市生活者となったのである。
この連結都市圏と中北部のエイサー文化圏の重なる地域に締太鼓型エイサーが発展し普及した。 第二のシマ社会は出自のシマ社会と乖離した精神的な距離の分だけ抽象的な共同体を形成することができた。
第二のシマ社会においては、群居する住民は都市住民として均質化されていった。 それと同時に産業労働者を主体として形成された都市圏だったので、産業労働に耐ええる身体の規律化が要求された。農漁村における自律した身体性ではなく、産業労働に対応することのできる他律的な規律化が果たされなければならなかったのである。
均質化と規律化を身体性として確立することが可能となったとき、出自のシマ社会を超える〈想像の共同体〉が形成されることが可能となったのである。そして想像の共同体は、自らを表象することが必要とされた。これまでの沖縄にはない、まったく新しい共同体を形成してしまったからである。
連結都市圏は、首里・那覇を中心として形成された都市圏ではなかった。そのため表象は琉球王国からの延長ではなかった。出自の異なる多彩なシマ社会の共通項を基軸に表象が形成されたのである。それがいわゆる〈沖縄らしさ〉であった。
締太鼓型エイサーとは、想像の共同体における沖縄らしさを表象するものとなったのである。均質化と規律化のなかで形成されたので、この型のエイサーはモデルとなることができた。
つまりシマという根を離れても普及するだけのモデルとしての構造ができあがったのである。 そのため太鼓型エイサーは沖縄らしさを表象するとともに、シマを超えて、そして沖縄を超えて普及発展することが可能となったのである。
【参考文献】
池宮正治「エイサーの歴史」『エイサー360°:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)
折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』(1975年、中公文庫)
宜保栄治郎「名護市世冨慶のエイサーについて」『エイサーフォーラム』プログラム(1996年)
沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)
『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』(1972年、琉球政府)
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