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2006.11.18 第10回南島地域文化研究会で発表した「沖縄における団塊世代」のレジュメに加筆修正した未完成レジュメ
具志堅邦子(家族社会学・沖縄国際大学非常勤講師)
団塊という世代が発見されたのは1976年。堺屋太一の『団塊の世代』(文芸春秋、1976年)という小説のなかで、1947年から1949年の出生数の塊に注目されたことによる。
団塊世代への注目は少子高齢社会・人口減少社会の到来によって近年再浮上してきた。2007~2010年にかけて年間100万単位の団塊世代の定年者が出現し、現状の社会システム(例えば生産と消費の経済構造や生活保障と税負担の問題)の転換を余儀なくされている。それゆえに団塊世代論が浮上している。
しかし沖縄においては団塊世代論が話題にのぼることは多くない。その理由は何なのだろうか。そもそも沖縄において団塊世代はあるのだろうか。あるとしたら、沖縄における団塊世代はどこに特定すればいいのだろうか。
団塊世代の括り方は、1947年、48年、49年までの3年間に生まれた狭い年齢層を限定するのと、共通の時代経験や価値意識を持つという点から1945年から54年生まれまでの10年幅の年齢幅を想定しているのもある。一般的には1947年、48年、49年生まれが支持されている。1947年から49年を第一次ベビーブームという。
世代とは、広義には「社会を構成する一定の年齢層(通常30年)の人びと、ないしはその年齢帯」をいい、狭義には「出生時期を同じくし、歴史的体験を共有することによって類似した精神構造と行動様式を示す一群の同時代者」(社会学小事典)をさす。団塊世代論に関しては出生数と歴史的体験でみることが基本のようである。
1947~49年のわずか3年間に生まれた団塊世代は現在(2006年時点)、人口にして691万人、就業者数にして539万人と、日本の全人口の5.4%、全就業者数の8.6%を占める。
団塊世代はその人口ボリュームゆえに、産業構造、各企業のマーケティング活動の面にさまざまな衝撃を与えてきた。常に日本経済の盛衰や危機との関係で語られた。高度経済成長、オイルショックを経ての低成長、バブル期、そして失われた10年という日本の社会の変転とともにあった世代である。
団塊世代はその数の多さゆえに、高校進学率をアップさせ、つねに競争のなかにあり、地方から都市へ大量に移動し都市化に拍車をかけ、また彼らは世帯形成期には郊外へ移動し郊外化を生み出した世代である。
団塊世代はライフステージごとにネーミングが変遷した。出生~20代前後は、第一次ベビーブーム世代、戦後民主主義の申し子、移動世代、全共闘世代。20~30代は、友達夫婦、ニューファミリー、近代家族。30代~40代は、会社人間、ポストレス世代と多様なネーミングが冠され、その時代と彼らの関わり方の一面を強調した。
団塊世代は世代論が成立する最後の世代と言われている。歴史的体験の共有が普遍性を持っている点からである。彼らのライフスタイルは彼らの青年期のサブカルチャーを引きずり、60歳の手前であってもフォークソングやロック音楽に共感を示し、休日にはジーンズやスニーカーを履き、子どもと一緒にマンガやアニメ、ゲームに興じる感覚を持ち合わせている。
年齢規範より世代規範がより強いことが世代的特徴と論じられている。そのライフスタイルやサブカルチャーは常に前の世代とは違う新しい価値観の創出を意味した。
団塊世代は常にビッグマーケティングであり大量消費社会を生み出した。彼らが生み出してきたものが一過性ではなく、今なお彼らの生活に根付いているという点が団塊世代論を定着させるのであろう。
しかし団塊世代が高齢期に入る今後は、高齢人口の増大とともに高齢者への捉えかたが変容する。これまで「ニューファミリー」(集団としての家族)と記号化されていた団塊世代の家族は「個に帰る家族」(個人化した家族)へと大転換していく。
団塊世代はこれまでの高齢者イメージでは捉えられない。社会を支える「アクティブ・エイジング」という存在になり、その位置づけがますます有効になっていくことが予想されている。 日本における団塊世代が議論に値するのは彼らの動向がこれからの日本社会をどう変えていくかを示唆するからである。
「団塊世代は常に経済の盛衰で語られ、そのライフスタイルやサブカルチャーは新しい価値観の創出を意味した。団塊世代は人口ボリュームゆえに常にビッグマーケティングとなり、大量消費社会を生み出した。彼らが生み出してきたものは一過性ではなく、今なお彼らの生活に根付いている」(財ハイライフ研究所、三浦展)。
「団塊世代が高齢期に入る今後は、高齢人口の増大とともに高齢者への捉えかたが変容する。これまで「ニューファミリー」(集団としての家族)と記号化されていた団塊世代の家族は「個に帰る家族」(個人化した家族)へと大転換していく。高齢者はもはや「社会的弱者」ではなく社会を支える「アクティブ・エイジング」であり、その位置づけがますます有効になっていくことが予想される」(三浦、天野、前田、参考文献参照)
「マーケティングにおいては大量消費社会から物質面だけでなく精神面も含めた新しい消費社会が誕生すると言われている」(財ハイライフ研究所、三浦展)。
出生数の年次推移に注目した団塊世代の特定の仕方を、沖縄に当ててみたらどうであろうか。
出生数に着目した日本における団塊世代は1947~49年とされているが、沖縄においてはそのコーホートは出生数が高いとはいえない。むしろ、1951~54年の出生数が突出して高い。したがって出生数の塊にのみに注目すると、沖縄における団塊世代と日本における団塊世代にはズレがある。その要因は何であろうか。
戦争によって結婚・出産が遅れると、戦後これを取り戻す動きが活発化して出生数が急増する。日本においては1945年の10月から始まった在外邦人の引き揚げがベビーブームの発端となった。青年男子の帰還が結婚ラッシュをもたらし、これを原因として団塊世代が誕生したと考えられている。
しかし沖縄においては地上戦の惨禍の後遺症で親となりうる世代が少なく、しかもしばらく社会基盤が形成しえなかったこともあって、出生数が急増するのは日本より遅れて1951~54年である。このことが主な要因であろう。
合計特殊出生率の波が日本と軌を一にしないのは、沖縄においては米軍統治下にあって優生保護法が成立しなかったことがあげられよう。 また日本においての合計特殊出生率の急激な低下は少ない子どもに高度な教育を与えるという価値観の普及のためであろう。
日本の企業は、戦後、終身雇用と年功序列賃金と労働者組合の3点セットの日本型雇用慣行で労働者を獲得し維持した。しかし学歴にともなう初任給の格差、その後の給料の昇給の格差が生活の質に多大な影響を与えることを大衆は実感した。そのことにより、家族は小規模化し、三歳児神話、受験戦争、という社会をつくっていく。
さらに、日本型雇用慣行は男性は企業戦士、女性は結婚後は専業主婦、子どもは二人という日本型標準家族を大量につくりだした。団塊世代はそれらを歴史的体験した世代なのである。
沖縄社会は大企業が脆弱で日本型雇用慣行のある社会の勢いを体験していない。したがって合計特殊出生率は日本社会と軌を一にしていない。
金城一雄(1992)は「沖縄でのベビーブームは、旧来安易に言われているように全国と同一の期間では必ずしもなく、全国より2、3年遅れて形成され、期間も2~3年長いのが妥当であろう」と指摘している。
なお、日本における団塊世代の出現は第二次世界大戦後の青年男子の帰還が結婚ラッシュをもたらし、この要因が団塊世代を誕生させたと考えられているが、金城(1992)によれば、沖縄においては「1950年代初頭に形成された沖縄でのベビーブームは、全国のように主に『結婚ブーム』に起因するものでは必ずしもないと推察されうる」と指摘している。
「別言すれば、当期の沖縄では、新たな婚姻によって生じた第一子の出生が出生数の増大に及ぼす影響は全国より弱く、既婚姻関係より生じた第2子以上の出生の影響が大であったと考えられる」と論じている。
つまり戦後の沖縄社会は捕虜収容所からの帰還や、結婚適齢期の若者を戦争で失い、インフラが整うのが遅かったことによって、日本社会と同じような1947年・48年・49年のベビーブームの到来が来ず、1951年・52年・53年・54年にベビーブームが到来したということである。
日本における団塊世代が出生数に注目されてネーミングされたことに準ずれば、沖縄における団塊世代は1951~54年生まれだと特定できるであろう。
しかし、沖縄において、1951~54年のこの世代は団塊世代と位置づけられることはなかった。その理由として、①日本における団塊世代の定義を検証しないままに、出生数の少ない1947~1949年までを団塊と捉えていたこと、②日本における団塊世代のように、その世代以降に急速な出生数の減少がみられなかったため、だと思われる。
しかし、前の世代と異なる歴史的体験をしたのが日本における団塊世代(1947年から49年)だとすると、沖縄における団塊世代(1951~54年生まれ)も、画期的な歴史的体験をしているといえよう。 1951~1954年にかけて出生した世代を沖縄における団塊世代と特定して論を進めめてみたい。その指標として高校進学率と離婚率の推移で比較してみる。
日本における1947年生まれの団塊世代が満16歳になり、その年齢が高校一年生になるのが1963年とすると、1963年の高校進学率は前年の高校進学率62.3%を2.8ポイントあげ66.8%(1963年)と上昇する。さらに1949年生まれの団塊世代の高校進学率は70.7%となる。団塊世代の特徴として高校進学率が劇的に上昇していく時代を生きているということである。
1951年から54年生まれを沖縄における団塊世代とすると、沖縄における団塊世代も高校進学率は急伸する。同じく満16歳が高校1年生だとすると沖縄の団塊世代以前の高校進学率は53.3%(1966年)。1951年生まれの高校進学率は59.10%(1967年)。5.6ポイントの急伸である。
これは全国の団塊世代がもたらした以上の社会的激変ともいえる。ほぼ半数近くの者たちが義務教育だけで学業を終了していた時代から、高校進学があたりまえになる時代へと、激変する時代であり、その歴史的体験を彼らは共有しているといえる。
沖縄における団塊世代も前の世代とは違う歴史的体験をし、新しい価値意識をもった世代ということになる。
離婚する理由はさまざまであるが社会変動の指標になる。沖縄の「離婚率」から沖縄における団塊世代が他の世代と画期しているか検討する。
1951~56年にかけて「沖縄の離婚率」が急速に低下することから、沖縄における団塊世代も他の世代と画期的に違うとみることが可能ではないか。
1951年の1.12%を境に1954年の0.65%まで、離婚率は急速に減少する。1953年に全国平均を下回り、1963年までの11年間にわたり、全国平均を下回り続けている。この時期は沖縄の婚姻史上、画期をなす。
離婚率が低いということは、家族規範が強かったことを意味する。それは沖縄における家族規範の特殊な時期であるといえよう。要因は確定できない。
ちなみに、沖縄において明治民法が改正されて新民法が施行されるのは1957年1月1日である(『沖縄大百科事典別巻』「沖縄・奄美総合歴史年表」による)。 そうすると1956年までの離婚率の急激な低下は、明治民法の下での婚姻によって発生したのだといえる。明治民法の施行時(1898年)には全国的に離婚率が半減する。戦前の沖縄では明治民法の施行による離婚率の急激な低下は見られないが、戦後、何らかの要因(戦後の急激な都市化など)で明治民法による離婚率の低下を招いたことが考えられる。新民法が施行された1957年から離婚率は増加を始めるので、戦後の離婚率において、明治民法の要因は強かったものといえる。
沖縄における団塊世代は家父長制の強い明治民法のもとで生まれ育ち、離婚率が急速に減少する時代に生まれ育ったことになる。学童期まで、離婚率の低い社会で生活していたということは、沖縄における団塊世代が前後の世代と画期的に違う時代を生きていたということである。
沖縄における団塊世代を出生数、合計特殊出生率、高校進学率、離婚率から検討してきた。 日本における団塊世代が特異な世代であったように、沖縄における団塊世代も特異な世代である。ただ出生時期は同一ではなく、また「日本」と同一の時代背景や歴史的・社会的体験を共有しているとは言い難い。
高校進学率、離婚率、という数量データーをみるかぎりにおいては、1951~54年までの出生者は、沖縄社会において他の世代とは画期をなす特異な世代ということになる。
さらに、沖縄における団塊世代は、沖縄戦後史の画期とも重なる世代である。1951年に「対日講和条約」がサンフランシスコで署名され、翌1952年に発効された。その結果、沖縄の施政権は、日本国からアメリカ合衆国へ移された。その時期に生まれた世代が沖縄における団塊世代であるといえよう。 また、沖縄の施政権が日本国に返還される1972年に、彼らは18歳から21歳までの成人期を迎えている。20歳前後で日本復帰を経験した。
「歴史的体験を共有することによって類似した精神構造と行動様式を示す一群の同時代者」(社会学小事典)が世代論を成立させるのなら、「沖縄における団塊世代」の精神構造や行動様式に関しての論証が今後の課題である。
参考文献
天野正子『団塊世代・新論―<関係的自立>をひらく』有信堂、2001年
落合恵美子『21世紀家族へ』ゆうひかく選書、1997年
金城一雄,「沖縄における婚姻の動向とその特殊性」『沖縄大学紀要第9号』1992年
堺屋太一『団塊の世代』文芸春秋、1980年
澤田佳代「戦後沖縄における「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の萌芽―米軍統治と助産婦における避妊普及活動」明石書店、2005年
鈴木広「過剰都市化の社会的メカニズム」『都市化の研究』恒星社書房、1986 年
波平勇夫「沖縄社会の変容と現在」『地域社会学の現在』ミネルヴァ書房、2002 年
根村直美『ジェンダーと交差する健康/身体―健康とジェンダーⅢ』明石書店、2005年
前田信彦「定年後の職業観―定年文化の変容とアクティブ・エイジング」社会学評論
三浦展『団塊世代を総括する』牧野出版、2005年
三浦展『団塊ジュニア1400万人がコア市場になる!』中経出版、2002年
宮平栄治「“シニア”産業の可能性―団塊世代向け「華麗」市場への産業確立に向けて」(『沖縄の新観光ビジネス』財団法人雇用開発推進機構、2005年
樋口美雄・財務省財務総合政策研究所『団塊世代の定年と日本経済』、2005年
財団法人ハイライフ研究所『団塊世代の地域分布とその生活スタイル』
2005年
経済企画庁『平成10年国民生活白書―「中年」-その不安と希望』2000年
国勢調査
衛生統計年報
2017年サンジチャーinゆかるひ、連続エイサー講座
第1回(5月20日 土曜日 午後3時~5時)「異類異形(いるいいぎょう)」
第2回(5月27日 土曜日 午後3時~5時)「モーアシビからエイサーへ」
第3回(6月3日 土曜日 午後3時~5時)「祖国復帰運動が産んだ締太鼓型エイサー」
第4回(6月10日 土曜日 午後3時~5時)「神話劇としてのパーランクーエイサー」
第5回(6月18日 日曜日 午後3時~5時)「僕の目線からみた青年会エイサー」
ゲストスピーカー:上間哲朗(今帰仁村仲宗根青年会前会長、認定キャリア教育コーディネーター)
進行:宜野座匠(元浦添市青年連合会副会長、会社員)
場所:BOOK CAFE&HALL・ゆかるひ 那覇市久茂地3-4-10 YAKAビル3F
【要旨】
エイサーの祖形は、アンニャたちがもたらした「似せ念仏」だった。沖縄に渡来したアンニャとは、中世日本を漂泊跋扈した「異類異形(いるいいぎょう)」と呼ばれる「悪党」の一つであった。
「似せ」というのは「ニーセー」の当て字であり、ニーセーは若衆を意味する。つまり似せ念仏とは若衆念仏であった。 アンニャはアンギャ(行脚)の転訛であり、彼らは葬儀で念仏を唱える時にはニンブチャー(念仏者)と呼ばれ、門付け芸として人形劇を演じる時にはチョンダラー(京太郎)と呼ばれた半僧半俗の職能民だった。
【映像テクスト】
①八重瀬町安里青年会の古形のエイサー(2007年)
②うるま市勝連平敷屋青年会東組によるエイサーの余興「チョンダラー」(2005年)
安里青年会は、自治公民館前の広場で午後11時くらいまで糸満市米須から伝授した沖縄市園田の締太鼓型エイサーを踊り、日付が変わる頃に華やかなエイサー衣装から普段着に着替え、念仏系のエイサー歌を歌舞しながらシマ(集落)の家を一軒一軒訪問していく。 モーアシビの要素がほとんどないことに着目して、古形のエイサーと分類している。チネーまわり(くーやーとかやーまーい)と呼ばれるそのエイサーは、二日がかりでシマのほとんどすべての家を巡回する。深夜の来訪にもかかわらず、各家では御馳走を用意して青年男女によるエイサーを迎える。
平敷屋では奉納エイサーの後に余興がある。平敷屋青年会東組による余興の演目の一つのチョンダラー。場所は平敷屋部落のカミヤ前。
約50分のエイサー演舞が終わった後、東組の道化(ナカワチ)たちによって演じられたもの。異類異形のもっていた宗教性、芸能性、蛮性が感じられるものとして取り上げた。
【参加者からのコメントと質問(要約)】
・古形のエイサーが念仏系の歌を歌いながら集落のすべての家々を回るのは時間がかかるのに、それを現在もしているということに驚いた。
・チョンダラーが子どもたちと戯れながらも、子どもたちの安全を確保し、演舞するエイサー青年たちと子どもたちの場を作り出していた。その場面に出会ってチョンダラーに関心をもった。
・エイサーの脇役で盛り上げ役だと思っていたチョンダラーが、実はエイサーをもたらした存在だということが発見だった。
・平敷屋ではチョンダラーに選ばれることが名誉なことである。チョンダラーの歌詞を暗唱する時に厳しく指導される。チョンダラーのエンディングを一人で舞うのは、演技者としてのさらなる名誉であり、その時は恍惚感に満たされている瞬間である。
・チョンダラーは地域によって、ナカワチとかサンラー、サンダーと呼ばれ、多様性のある呼称だが、それをチョンダラーと一括りにすることに関してどう思うか。
・チョンダラーがピエロのような存在になっていることに関してどう思うか。
・「似せ念仏」の似せは、偽物(にせもの)ではなくニーセー(青年)のことなのか。
【要旨】
土地整理事業(1899~1903)と明治民法(1898)の公布でシマ社会が激変する時代に、位牌祭祀が民衆化していく。それとともにモーアシビが禁圧されていく。そのような社会的ダイナミズムのなかで、ニンブチャー(念仏)とモーアシビ(歌垣)が合体し、新しい芸能としてのエイサーが誕生した。 モーアシビは来訪神祭祀と同じ構造をもつものだった。ニンブチャー(念仏)とモーアシビが合体することによって、祖先供養のほかに、五穀豊穣と子孫繁栄というシマの来訪神の要素が加わる。エイサーはシマに祝福をもたらす来訪神としての要素をもつ。
【映像テクスト】
①本部町瀬底エイサー(1999年)
②今帰仁村今泊青年会のエイサーと世願い(2008年)
③名護市のある青年会エイサー(1999年)
④名護市城青年会エイサー(1999年)
⑤読谷村楚辺エイサー(2003年)
【参加者からのコメントと質問(要約)】
・日本の古代史が沖縄では近代史として捉えることができる。
・エイサーには沖縄の古代性が残っていて、動画をみていて鳥肌がたった。
・今帰仁村今泊青年会のエイサーの世願い(ユニゲー)の祈りの先には海がある。
・中学校の運動会でエイサーの練習したが、読谷村楚辺のエイサーの動画をみると、羨ましくて青年エイサーをしたかった。
・宜野湾市新城の共有地は現在もシマ社会の人々が清掃したり、レクレーションで利用している。土地整理事業以前のシマ社会の慣行が今も残っている。
・青年会のエイサーには、ノーマライゼーションのシステムがある。
・知識人たちが沖縄の近代化に向けてどういう役割を果たしたのか?
・モーアシビの禁圧に対して、民衆は反乱しなかったのか?
・戦前のエイサーの衣装にも法被があったのか?
【要旨】
締太鼓型エイサーがエイサーのイメージを独占し沖縄らしさを表象する芸能になっていく要因として、①戦後に誕生した連結都市圏の中で生成したエイサーであること、②祖国復帰運動が高揚・挫折した後の沖縄アイデンティティを求める時代に生まれたがあげられる。
1950年代に誕生した旧石川市から那覇市までを含む連結した都市群に「第二のシマ社会」が形成される。この連結都市圏の北半分は、近代にエイサーを生成させたエイサー文化圏に属するものだった。この連結都市圏とエイサー文化圏の重なるエリアに、締太鼓型エイサーが生成していく。
連結都市圏は頂点(中心)のあるツリー(樹木)型の都市ではなく、頂点(中心)のないリゾーム型(根茎)の都市だった。権力や権威によるツリー型のコミュニティ秩序ではなく、第二のシマ社会というリゾーム的な秩序の中で、締太鼓型エイサーという新しい芸能が形づくられていく。
祖国復帰運動は米軍基地撤去を求め、異民族支配に反対する運動だった。そのため米軍基地撤去と日本人になるというナショナリズムとがセットになった運動だった。
1960年代後半に米軍基地を残したままの復帰になることが明らかになるにつれ、日本人になるというナショナリズムは霧散し、沖縄アイデンティティの確立と表現が求められるようになっていく。この1960年代後半に全島エイサーコンクール(1956-1976)で優勝を重ねるようになっていくのが締太鼓型エイサーだった。
締太鼓型エイサーはシマを離れた第二のシマ社会で生成したエイサーであり、沖縄アイデンティティの確立が求められる時代に型を完成させたエイサーであった。そのため締太鼓型エイサーは都市に第二のシマ社会を形成することのできる芸能であり、沖縄らしさを表象することのできる芸能となった。
【映像テクスト】
①園田エイサー道ジュネー(2007年)
②沖縄市山里・諸見里・園田・久保田のエイサー(2003年)
【参加者からのコメント(要約)】
・沖縄の連結都市圏に20年住んでいるが、連結都市圏がなければ住み心地の悪い沖縄だったかもしれない。連結都市圏は価値観が多様なリゾームなので、けっこう住み心地が良い。
・国道330号線でバスの通行するそばでエイサーを踊るのは、地元ではこれが普通で当たり前のことである。12時くらいからエイサーオーラセー(エイサー喧嘩)があり、それを見るのが楽しみである。
・復帰運動の中で日本人化を目指していたことを再確認した。現在は沖縄アイデンティティをどう確立するのかが自分にとっての課題になっている。
・沖縄は時代ごとの社会変動が激しく、それが世代間断絶を生んでいる。エイサーについて話し合うことは、世代間断絶を乗り越える良いテーマになると思う。
・自分の息子が某市のエイサー団体で踊っていた。そこは山里エイサーの型で、空手の型の手踊りがかっこいい。(受講者に某青年会のリーダーがおり、互いに奇遇を喜ぶ)
・本土の小中学校の吹奏楽に沖縄の音楽を演奏させると、自然にエイサーの動きっぽくなる。賞などをあげて沖縄に呼んだりすると、「よさこいそーらん」のように盛り上がるかもしれない。
・自分はエイサーを、笑顔のエイサーと笑顔じゃないエイサーに分けている。手踊り型のエイサーは笑顔のエイサーであり、太鼓型やパーランクー型は笑顔じゃないエイサーということになる。
【参加者とのQ&A】
Q. リゾームと1956年以降の「島ぐるみ闘争」との違いは何なのか。シマ社会が独立性の高い社会だとすると、島ぐるみという闘争は矛盾するのではないのか。
A. テーマが米軍基地撤去というシンプルなものだったので、シマの差異やリゾーム内での差異を超えることができた。その当時は5万人規模、10万人規模のデモが頻繁に行なわれ、那覇の街を埋め尽くしていたので、島ぐるみという一体感をもつことができた。
Q. 地域文化の差異によってウチナーグチという表現に抵抗感を持つ人がいる。ウチナーグチの標準語化についてどうとらえたらいいのか。
A. ウチナーグチ(沖縄語)という標準語的な表現への抵抗感は根強く、シマクトゥバ(シマの言葉)という表現が用いられるようになった経緯がある。沖縄アイデンティティは共通語励行のような言語の強制をともなわない。
【要旨】
パーランクー型エイサーは、沖縄本島の与勝半島とその周辺島嶼部で生成発展してきたエイサーである。モーアシビ(手踊り)型や締太鼓型とは異なり、パーランクー型エイサーは劇場的エイサーである。
時間軸ではメーモーイ→入場→演舞→狂言→退場という構成をとることが多い。空間軸では静的な男女の手踊り、禁欲的なパーランクー叩き、道化の乱調に分かれポリフォニック(多声的)な構成となっている。
モーアシビ型や締太鼓型がストレートな恋心を表現するのに対して、パーランクー型エイサーは忍ぶ恋心を表現する。 忍ぶ恋心や禁じられた恋は近代の那覇で誕生した雑踊(ぞうおどり)や沖縄芝居の中で表現される。
パーランクー型エイサーは時代の最新流行を取り入れて形成されたエイサーだった。 エイサーの生成期である大正年間まで、沖縄の物流は陸路ではなく海上交通を中心としていた。与勝半島とその周辺島嶼部は沖縄本島東回りの海上交通をほぼ独占していた。そのため時代の最新流行を取り入れることが可能な地域だった。
ほとんどのパーランクー型エイサーには標準語歌詞の歌が入っている。これらは祖国復帰運動の痕跡である。祖国復帰運動が高揚した1956年から1966年までの全島エイサーコンクールで優勝したのは、ほとんどがパーランクー型エイサーだった。
パーランクー型エイサーは時代の最新流行を取り入れて形成されたエイサーであるにもかかわらず、新しさではなく、古式ゆかしい伝統的な趣きを感じさせるエイサーとなっている。
このパラドックスは、パーランクー型エイサーが、時代の最新流行を取り入れることが可能でありながら、古層の文化(神話的思考)の色濃いエリアに生成したことによって成立する。
パーランクー型エイサーは雑踊、沖縄芝居という舞台芸能の要素を取り入れながら、それを舞台ではなく地上(庭)で演じる。舞台芸能から庭の芸能へという芸能洗練化の逆コースをたどるとき、そこに神話的思考が働き、エイサーは神話劇の趣きを湛えるようになるのだといえる。
そのためパーランクー型エイサーは、モダン(近代的)な様相にあふれるエイサーでありながら、あたかも神話劇が演じられているかのような時空に観衆を誘い込む。
【映像テクスト】
①うるま市比嘉エイサー復活の公開演舞(2000年)
②うるま市屋慶名エイサー(2004年&2003年)
③うるま市平敷屋エイサー(2004年)
【参加者とのQ&A】
Q. 沖縄本島東回りのコースを独占した山原船(やんばるせん)は、ウミンチュ(漁師)だったのか、交易だったのか。
A. ウミンチュではなく交易としての海上交通の担い手です。
Q. 神話的というのはコスチュームのことか。
A. コスチュームではなく、日常的な時間が止まるという感覚。演劇性だけでは解釈つかない古い感覚を感じさせる。歴史的思考ではなくて、始原の時間意識を感じさせる。民話は世界がすでに始まったものとして語られるが、世界がここから始まるという感覚。それが神話的という言葉を用いた理由である。
Q. オーラルカルチャー(口承文化)が残っている地域なので神話的思考が残っているのではないのか。
A. 文字社会では文字で記されたものから世界が始まる。オーラルカルチャーでは具体的なものから世界が始まる。オーラルカルチャーでは神話的次元に時計の針を戻す力がある。
Q. 神話的思考という点では、アイヌのユーカラの世界と通じるものを感じる。
A. 沖縄は12世紀頃に本格的な農耕社会に入る。歴史的にはつい最近まで狩猟採集社会であり、アイヌやアボリジニなどの神話的世界と通じるものがある。
Q. 高度な道具のないおばあたちでも、イノー(礁湖)で海藻を採ったり蛸を捕ることができる。狩猟採集的なイノーの生産力の高さが、神話的思考を身近に残している原因なのではないのか。
A. 戦前まで、遠浅のイノーには干満の差を利用したナガキ(魚垣)があった。石垣市白保のウミンチュが昔は海老を足で踏んで捕えていたという話をしていたが、ナガキではそのような漁が可能だったと思う。
Q. 宮古のモーアシビの歌にはストレートな歌詞が多く、石垣には秘めた恋心を歌った歌が多い。いままで疑問に思っていたが、今日の講座で腑に落ちた。
A. 八重山芸能は首里文化の影響をストレートに受けている部分がある。宮古は首里文化をそれほど受け入れていないように思われる。
A. 八重山でもシマ社会と士族社会では文化が違う。両方の文化が融合して現在の文化ができあがるが、地域によって融合のグラデーションが違うと思われる。(司会)
Q. 激しい動きを表現するために、太鼓型でパーランクーを使用した例もあるのでは。
A. 成立のプロセスが異なるので、そのような例はないと思う。与勝半島とその周辺島嶼では、那覇の舞台芸能を見たことによりパーランクー型エイサーを創ったのではないだろうか。
A. 創作エイサーでは締太鼓の代りにパーランクーを使うケースもある。学校エイサーではパーランクーを締太鼓代わりに使っている。(会場より)
Q. 自分は宮城島の出身だが、年輩の方たちを取材していると、比嘉エイサーの出現に衝撃を受けていたようだ。年輩の方たちは最初は質問に答えないが、親しくなるとしゃべるようになる。
A. 70代、80代の方たちに取材すると、10年、20年以上前には朝からそこらの海で魚を取って朝食で食べていたという話を聞く。取材してもラポール関係がないとなかなかしゃべらない。(会場より)
テーマ
青年会のエイサーは、沖縄社会にとっての無限の宝であるともいえるが、多くの課題をもつ現状にもある。エイサーにほれ込んだ青年たちの話を共有して、エイサー青年たちが生きやすい社会を考えていく。
ゲストスピーカー:上間哲朗、1983年生まれ。今帰仁村仲宗根生まれ。今帰仁村仲宗根青年会前会長。認定キャリア教育コーディネーター。
司会・進行:宜野座匠、1981年生まれ。元浦添市青年連合会副会長。会社員。
彼らとの出会い
エイサー講座の最終回には青年会OBに「ぼくの目線から見た青年エイサー」を今帰仁村仲宗根青年会前会長の上間哲朗さんに語ってもらった。進行も青年会OBであり、エイサー青年の育成と交流を県内・県外・国外と幅広く企画している浦添市の宜野座匠さんにお願いした。お二人にまるごと任せた。
私が上間さんを知ったのは去年。その後、彼とはFBで繋がり、彼の投稿から彼の性格や仕事を知り、彼は「語れるエイサー青年」だと確信した。宜野座さんを知ったのは、彼がエイサー講座2回目に上間さんと受講しに来た時だ。 私は、上間さんに、4月末にエイサー講座へのゲストスピーカーを依頼し、宜野座さんには、エイサー講座4回目が終わってから依頼したのだ。即、快諾を得た。私のキャスティングは大成功だった。予想以上であった。
私たち世間は、エイサー青年のイメージを修正せねばならないであろう。彼らは地元愛が強い。しかし地元に固執しているわけではない。縦横無尽に駆け巡っている。
彼らはまるでニンブチャーたちのワイルドさと、モーアシビをエイサーに変換した青年たちの独創性と自由さをもって、現在に存在しているのだ。
上間さんのトークと動画はドキュメンタリー番組を見ているようであった。しかしそれはゼッタイにテレビ局には作れないであろう。なぜなら、当事者であり演舞者であり、沖縄の社会問題をもって作成しているからである。
何しろ、彼は7年前に動画を撮っているのである。それはモーアシビエイサーの仲宗根青年会がパーランクーエイサーを導入するにあたり、糸満市大里青年会から教えをいただくところからあるのだ。 その動画は価値が高い。私は、その動画を説明したくない。それは彼のトークに耳を傾けた人だけが見れるものであることがいいと思うからだ。
出会うことのないはずの今帰仁村仲宗根の青年たちと糸満市大里の青年たちが、エイサーの伝授で出会っていく。それは近代社会的な交流ではない。近代の罠を乗り越えるポストモダンな交流なのだ。 エイサー講座最終回は、私たちにエイサー青年イメージの修正を迫った。
【エイサー5回目の質疑応答要旨】Qは質問者、Uは上間哲朗、Gは宜野座匠
Q. やんちゃしている若者は青年会に入るのだろうか。
G. 昔は飲酒、喫煙が目的で青年会に加入する未成年者もいたが、現在の自分たちの青年会では未成年者に飲酒、喫煙はさせていない。今はやんちゃな若者だけではなく、小学生、中学生にフォーカスして青年会への加入を勧めている。
Q. 仲宗根青年会は手踊り主体のエイサーからパーランク型エイサーに変化しているが、パーランクー型を採り入れることによって手踊りエイサーに変化はあったのだろうか。
U. パーランクー型エイサーに変化したのではなく、手踊り型エイサーにパーランクー型エイサーを追加したのだと思っている。パーランクー型エイサーをすることによって、手踊り型エイサーが楽しいものになっている。手踊り型エイサーを残すための手段としてパーランクー型エイサーを導入した。
Q. エイサーをしていて一番うれしかったことは何ですか。
U. みんながいつの間にか、そして確実に成長していること。人材育成の喜びがある。
G. 一回り違う世代の人と交流できること。
Q. 子ども会と青年会の連携はどうなっているのか。
U. 小学生には子ども会があり高校生には青年会があるが、中学生にはそれにあたるものがなく、抜けてしまう。そのため中学生でドロップアウトするケースが多い。
Q. 子どもたちが忙しくて地域活動に参加できないケースもある。学校に問い合わせても、地域活動に参加する余裕がないとの返事があった。
U. 学校が忙しいのはわかるが、来る子は部活をやっていてでも来る。
Q. 浦西エイサーは新興住宅地のエイサーなので、他の地域にないような苦労があるのではないのか。
G. 人数を多くしようとは考えなかった。それよりも地域で長く活動できる人を育てようと思った。その地域に核がなくとも、長くやると核ができていく。何十年先までもエイサーが続くように考えている。自分のシマだけを見るのではなくて、沖縄市など他の地域との交流を通して人材を育てている。
(文責:オフィス・サンジチャー代表:はこべ るり)
場所:Book&Caféゆかるひ 那覇市久茂地3-4-10 YAKAビル3F
期間・時間:2017年5月20日~6月17日・午後3時~5時
第1回(2017年5月20日) 「道々の輩(ともがら)――チョンダラー」
エイサーの祖形はチョンダラー(京太郎)たちの伝えた似せ念仏(若衆念仏)だった。チョンダラーたちは、中世日本から渡来した、念仏と人形劇を生業にした道々の輩だった。彼らは念仏を唱えるときはニンブチャー(念仏者)と呼ばれ、人形劇を演じるときはチョンダラーと呼ばれた。
動画観賞:八重瀬町安里の古形のエイサー、平敷屋エイサー東組のナカワチ(道化役)による余興「チョンダラー」
第2回(2017年5月27日) 「モーアシビからエイサーへ」
明治・大正期の風俗改良運動によってモーアシビが取り締まりの対象となる。同時期に位牌祭祀が本格的な民衆化を始め、祖先供養芸能の需要が高まっていく。社会の公的な場から追放されたモーアシビの青年男女は、似せ念仏のなかにモーアシビの要素を盛り込み、エイサーという新しい芸能を誕生させていく。
動画観賞:本部町瀬底のエイサー、名護市城のエイサー、読谷村楚辺のエイサー(締太鼓を使っているがモーアシビが中心になっている)
第3回(2017年6月3日) 「復帰運動が産んだ締太鼓型エイサー」
1960年代、米軍基地の撤廃を目指した「祖国復帰運動」は日本政府によって裏切られ、祖国日本に対する憧憬は急速に薄れていく。この挫折のなかで祖国日本に代わる沖縄のナショナルイメージが求められ、そのナショナルイメージに応えたのが締太鼓型エイサーだった。締太鼓型エイサーのスタイルの確立によって、エイサーはシマの芸能から、沖縄アイデンティティを表現する芸能に変貌を遂げる。
動画観賞:沖縄市園田・久保田・山里・諸見里などのエイサー
第4回(2017年6月10日) 「神話劇としてのパーランクーエイサー」
モーアシビの文化が近代的な雑踊(ぞうおどり)の洗練と出会ったとき、近代的な文化は、神話劇として構築されることになる。モーアシビのストレートな恋心は忍ぶ恋に変換され、忍ぶ恋に秘められた激情は、道化の荒々しい舞いとパーランクー叩きの禁欲的な舞いに変換される。そこに動と静とのコントラストが生まれ、エイサーは演劇的な構成をもつようになる。演じる青年たちは来訪神の化身なので、その演劇性は神々の演じる神話劇となっていく。
動画観賞:うるま市屋慶名と平敷屋のエイサー
講師プロフィール(4回) 具志堅 要プロフィール:1952年生まれ、中央大学文学部卒業。元地方公務員。2017年からBOOK CAFE&HALL ゆかるひにおいてポスト・モダンな講座を展開。ブログ「ぷかぷか」主宰。
企画・進行 具志堅邦子プロフィール:1954年生まれ、沖縄国際大学・看護専門学校の非正規雇用の教師。専門は家族社会学・沖縄研究・フェミニズム。
第5回(2017年6月17日) 「青年会エイサーの現状と課題」
エイサーは近代沖縄のシマ社会が時代の激動のなかで産み出した芸能だ。それは現代に再構築されたモーアシビであり、モーアシビのもつ神話的時空を現代に再現させる芸能だ。そこにはシマ社会の美学が表現されている。それと同時に、エイサーはシマの住民自治を支えるものとなっている。行政や学校、警察のコントロールによるのではなく、青年たちによってシマの自治が保たれているのだ。青年会のエイサーは、沖縄社会にとっての無限の宝であるともいえるが、多くの課題をもつ現状にもある。語り合いのなかで、青年会エイサーの現状と課題を共有したい。
ゲストスピーカー
上間哲朗プロフィール:1983年生まれ。趣味、釣り。今帰仁村仲宗根出身、前仲宗根青年会会長。沖縄海洋博記念公園管理財団(現:美ら島財団)海獣課へ就職、同時に地域の活動に注力する。現在、地域と学校を繋ぐコーディネーター(認定キャリアコーディネーター)として活躍。仲宗根の手踊り型エイサー(モーアシビ・エイサー)に片道90㎞ある糸満市大里青年会に通い、大里青年会のパーランクー型エイサーを2010年に追加した。2017年、子どもが創るエイサーまつりをプロデュースした。
司会・進行
宜野座匠プロフィール:1981年生まれ。趣味、写真・DIY・アウトドア・サバゲ・旅行。浦添市出身、青年会OB、元浦添市青年連合会副会長 。中学の頃に地元の青年会へ参加したことがきっかけで、エイサーとの縁ができる 。高校は沖縄市の高校に通うがエイサーへの興味はなく、20歳の時にビアフェスタのついでに全島エイサーを見たことで、エイサーへの興味が強くなる。エイサーへの興味から他市町村の青年会や県外のエイサー団体との交流。海外の人にもエイサーを知ってほしいとの考えで、JICA沖縄の研修生へエイサー指導を行い、沖縄のエイサーの魅力を伝えている。
2011.04.23 琉球風車のために
具志堅要&具志堅邦子
1.エイサーは職業的芸能民のニンブチャー・チョンダラーがシマの青年たちの芸能に変化した!
●職業的芸能民のニンブチャー・チョンダラーがいた
エイサーの祖形は、念仏踊り。それをもたらしたのがニンブチャー・チョンダラーといわれる職業的芸能民であった。彼らは半僧半俗の職業的芸能民であった。
葬式のときは念仏を唱え、ニンブチャーと呼ばれ、人形芝居をするときはチョンダラーといわれた。沖縄においては念仏踊りのひとつを「似せ念仏」という。似せ念仏のひとつがエイサーの祖形。
〈似せ〉というのは〈ニーセー〉の当て字であり、ニーセーは若衆(青年)を意味する。似せ念仏がエイサーの祖形である。
●似せ念仏の痕跡 似せ念仏系のエイサー
那覇市国場(旧島尻郡真和志村)のエイサー、南風原町喜屋武の「乞うやー(クーヤー)」、八重瀬町安里のチネーまわり(家廻り)がある。共通しているのは、酒瓶を担いで廻ること、門口で酒を乞うという門付け芸能の流れ。
●シマの青年たちにはモーアシビという場があった!
モーアシビという歌垣の場があった。モーアシビとは、〈沖縄〉のシマ社会における配偶者選択の場のことをもいう。モーとは原野のことをいう。もともとは原野のような非公開の場ではなく、アシャギとかアジマーなどの公開の場で行われた。
モーアシビへの参加年齢は、多くのシマにおいて14、5歳からの参加であり、女性は婚姻するとアシビのグループから抜ける。男性も20歳を過ぎたあたりから年寄り扱いされ、抜けていくということになっている。
モーアシビの場で歌われ、踊られたのがシマの青年たちの芸能である。 近代になって位牌継承制が普及するにしたがって、ニンブチャーが普及していく。そのプロセスのなかで、職業的芸能民たちがもたらした芸能をシマのモーアシビ青年たちがとりいれてエイサーになっていく。モーアシビをとりいれた新しいカタチのエイサーが普及発展したのは中部・北部。
●近代的エイサー
近代的エイサーはシマの芸能であること。青年たちが演じること。念仏はさわりだけで後は遊びウタ。
2.狭義のエイサーの分類と特徴
①手踊り型エイサー、②締太鼓型エイサー、③パーランクー型エイサーに分類する。
①手踊り型エイサーの特徴:ジカタのウタに踊り手がハヤシをかえす型で、太鼓は通常1個で伴奏楽器である。ウタが中心。ワンクール20~30曲ほど。手踊りは円陣舞踊。各家を訪問して庭先で踊られる。曲調が速く踊りが軽快である。
②締太鼓型エイサーの特徴:奏楽器だった太鼓が踊りだした。円陣舞踊ではなくなった。庭先ではなくてアジマーやグランドが主な演舞場になった。曲調が遅くなる。歌われる曲数も大幅に減少する。ワンクール7から8曲くらい。
③パーランクー型エイサーの特徴:タのテンポが極端に遅くなる。ワンクールの時間が長い。50分くらい。メーモーイがある。口上と演舞と退場という構成になっている。道化が独立した芸能をする。庭先で演じる。念仏ウタ以外は明治以降の創作民謡を歌う。標準語のウタが入っている。
3.似せ念仏の痕跡のうた
ニンブチャーたちの念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマ。 たとえば、〈継親念仏(ママウヤニンブツ)〉では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇ろな供養を頼む。歌は43番まである。
〈長者の流れ(チョンジョンナガリー)〉では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾す。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘ると、そこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まである。
これらの念仏歌は、現在のエイサー歌に痕跡として残っている。〈仲順流り節〉を歌うことにより、〈継親念仏〉と〈長者の流れ〉という二つの長い念仏歌を歌ったことにしているのである。 ことばには、その一節を歌うだけで長い歌を歌うのと同じだけの効果が得られるものという省略の力がある。おまじないや念仏などでもそうだが、ある一節を唱えるだけで、長い呪文や経典を唱えるのと同じ効力があるとみなされている。エイサーでも、さわりの部分だけを歌うことによって、43番とか63番まである長い歌を短縮し、省略することができた。
4.シマ社会のエイサーと第二のシマ社会のエイサー
シマ社会は沖縄の村落共同体かつては内婚率が高く、創世神話を共有するなど自律性の高いミクロコスモスを形成していた。
第二のシマ社会とは戦後短期間に形成された都市。首里・那覇の同心円的に発展した街ではなく、首里・那覇の郊外でもない新しい町。第二のシマ社会のコミュニティモデルはシマ社会。
与勝半島とその周辺諸島を除く沖縄本島中北部のシマ社会に手踊り型エイサーが普及発展する。手踊り型エイサーは固有のシマ社会と結びつき移植が難しい。
パーランクー型エイサーは同じシマ社会の構造をもっていれば移植は難しくない。締太鼓型エイサーはシマ社会を離れても移植可能。 中北部の手踊り型エイサーの盛んな地域と第二のシマ社会が重なるところに太鼓型エイサーが普及発展する。
パーランクー型エイサーは与勝半島とその周辺諸島のシマ社会で独自の発展をとげる。
5.動画鑑賞
【参考文献】
池宮正治「エイサーの歴史」『エイサー360°:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)
折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』(1975年、中公文庫)
宜保栄治郎「名護市世冨慶のエイサーについて」『エイサーフォーラム』プログラム(1996年) 『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)
『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』(1972年、琉球政府)
2010.8.7 19:00~21:00 於:仲座公民館
エイサーの歴史的・社会的生成を軸にして
具志堅 要 (沖縄古謡記録保存事業嘱託員)
1. 社会学の視点
少しずつ変化していったものとしてとらえるのではなく、変化の構造をとらえる。そのなかで変化したものと変化しなかったものを考える。
2. 古いエイサーと新しいエイサーの違い
古いエイサーは〈似せ念仏〉の系譜。新しいエイサーはモーアシビからの変容。狭義のエイサーを青年たちに担われたモーアシビからの変容と定義する。古いエイサーは仮に〈似せ念仏(クーヤーなど)〉としておく。
3. 〈似せ念仏〉と〈エイサー〉の違い
似せ念仏は他界から訪れる祖霊(歴史的存在)たち、エイサーは来訪神(神話的存在)。
4. 似せ念仏の起源
中世日本を漂白跋扈していたアンニャたちの渡来。アンニャとは下級宗教家であり、芸能もおこなっていた。葬式のときはニンブチャー(念仏者)と呼ばれ、芸能をするときはチョンダラー(京太郎)と呼ばれた。
5. 似せ念仏の痕跡
沖縄においてはエイサー、八重山においてはアンガマ。
6. 近代におけるエイサーの変容と普及発展
狭義のエイサーは、ヤガマの残る中北部に普及発展した。ヤガマとはモーアシビのトポスであった。似せ念仏はモーアシビの要素を取り入れることによって、狭義のエイサーに変容した。そのときに祖先供養に加えて、来訪神祭祀の要素が加わった(五穀豊穣、齢の長寿、子孫繁栄等)。
7. 狭義のエイサーの三分類と特徴
①手踊り型、②太鼓型、③パーランクー型
①手踊り型:円陣舞踊で、地謡の歌に踊り手が囃子を返す。太鼓は伴奏楽器。
②締太鼓型:伴奏楽器だった太鼓が踊りだしたもの。戦後の急激な都市化のなかで普及発展した。
③パーランクー型:与勝半島を中心に形成された。モーアシビが手踊り型に行かずに、雑踊り(ぞうおどり)の要素を取り入れて発展した。手踊り型、太鼓型がモーアシビの延長上で男女のストレートな恋心をあらわすのに対して、秘めた恋心を表現する。
参考文献
佐喜眞興英「シマの話」(1925年)『日本民俗誌大系第1巻沖縄』角川書店、1974年
網野善彦『日本中世に何が起きたか』洋泉社MC新書、2006年
城間秀雄「那覇市国場のエイサーについて」『エイサーフォーラム』1996年
野原廣亀「南風原町喜屋武のクーヤーについて」『エイサーフォーラム』1996年
宮良当壮「沖縄の人形芝居」『日本民俗誌大系 第1巻沖縄』角川書店、1974年
折口信夫「組踊り以前」「ごろつきの話」『折口信夫全集 第三巻』中公文庫、1975年
池宮正治『沖縄の遊行芸 チョンダラーとニンブチャー』ひるぎ社、1990年
宜保榮治郎『エイサー 沖縄の盆踊り』那覇出版社、1997年
那覇市史資料篇 第1巻12 近世資料補遺・雑纂』、2004年
ぐしけん かなめ「エイサーアンケート集約」エイサー研究会、1990年
2009.03.15 琉球風車の合宿 於:沖縄県青年会館
具志堅 邦子&具志堅 要
1.エイサーの祖形としての似せ念仏
エイサーとは何かということを考えると、中世日本から渡来した〈似せ念仏〉と、沖縄の基層文化である来訪神祭祀としての〈モーアシビ〉が、近代化において合体し、再構築されたものがエイサーであるといえる。
似せ念仏は念仏聖とよばれる下級僧侶たちの渡来によってもたらされた。下級僧侶たちは葬式で念仏を唱えるときはニンブチャーと呼ばれ、門付け芸をみせるときはチョンダラーと呼ばれた。
このニンブチャー・チョンダラーの芸能のなかから似せ念仏が伝播したものとみられている。
『那覇横目条目』(1733年)や『親見世日記目録』(1758、59年)によると、似せ念仏については「喧嘩口論をしてはいけない」「派手な格好をしてはいけない」「門の前で覆面のまま指笛を吹いて歌を歌い、目立つおかしな格好で道路を徘徊してはいけない」「覆面をしたまま歌三味線をして人家に押し入ってはいけない」などと取り締まりをしている。禁止されるということは、これらのことがすべてなされていたわけである。これからすると、そうとうに派手で荒々しい芸能であったようだ。(池宮正治「エイサーの歴史」より要約)
「かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチュウ)の渡海があつたものと見てよい」折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』中公文庫
似せ念仏の似せはニーセー=青年という意味である。つまり若衆念仏である。これがエイサーの祖形であるが、現在のエイサーとはずいぶん形は異なる。似せ念仏では説教節などの物語歌が歌われるようである。遊び歌はない。
この似せ念仏は首里・那覇を中心に広まったのであるが、近代において、ほとんど生きのびることができなかった。本家本元である首里・那覇ではその痕跡すらも残っていない。 島尻地方のいくつかの集落はその痕跡が残っているが、近代化が進むとともに消滅していく傾向があったようである。現在残っているいくつかの地域では説教節の長い物語歌はなく、その痕跡だけである。
エイサーという芸能は近代以降、中北部を中心に普及・発展した。中北部を中心に発展したエイサーはモーアシビエイサーといわれるものであった。そのエイサーでは説教節のさわりの部分だけが残され、歌のほとんどはモーアシビ歌となっている。
私たちがイメージするエイサーというのは、このような説教節の痕跡が残り、ほとんどはモーアシビ歌であるエイサーである。その意味ではエイサーは近代になって再構築された芸能であるとみることができるであろう。 ニンブチャーたちの念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマだった。
たとえば、〈継親念仏(ママウヤニンブツ)〉では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇ろな供養を頼む。歌は43番まである。
〈長者の流れ(チョンジョンナガリー)〉では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾する。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘ると、そこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まである。
2. ヤガマヤの残る地域にエイサーは普及発展した
では、なぜエイサーは中北部において普及発展し、南部では発展しなかったのだろうか。その謎を説く鍵として、ヤガマヤという娘宿の存在が考えられる。沖縄県史によるとヤガマヤの存在は島尻地方においてはみられないということである。つまり近代において、エイサーが普及・発展した地域とヤガマヤが残っていた地域とは一致するのである。
「ヤガマヤ 沖縄本島中・北部地方およびその周辺離島にあった娘宿。ユーナビヤ、ブーナビヤともいう。気のあった娘たちが一定の場所に集まり、糸つむぎなどの夜なべをした。そこへ若者たちが遊びに来て、そのあと誘い合ってモーアシビへ出かけた。大正年間まであったという。宮古島にもトゥンガラヤーと称する若者・娘宿があった」『沖縄大百科事典』1983年、沖縄タイムス社
「沖縄本島の南部島尻地方には、若者宿や娘宿があったということを聞かない。そのかわり、モウアシビという若い男女の夜遊びは、明治・大正の時代を通して盛んであった」『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』1972年、琉球政府
ヤガマヤとはどういうものであったのであろうか。それは未婚の娘たちが、アシャギや未亡人の「家」などに集まって糸つむぎ作業をすることであり、その空間をさした。そして娘たちが糸つむぎ作業をしているときに、三線などを持った未婚の青年たちが訪問し、作業が終わると、そこで未婚の青年男女によるモーアシビが行われたのである。
未婚の娘たちがアシャギや未亡人の家で糸つむぎ作業をするという構造は、神女たちが来訪神を迎えるために、神アシャギなどに籠もる儀礼と同じ構造である。神女たちは来訪神を迎えるとき、象徴的に処女にとなり、神の一夜妻となるのである。
つまり神女たちが忌み籠もるのは、神の妻としての処女性を獲得するためのものであった。それは神女たちが未婚の娘たちに変身するための通過儀礼であったのである。神女たちは未婚の娘に変身することにより、来訪神を迎えることができたのである。
ヤガマヤの娘たちはその意味では、神女組織よりも原初的な形であったとみてもよい。むしろ制度化された神女組織よりもはるかに古い起源をもつ可能性がある。
ヤガマヤが原初的には来訪神祭祀の構造であったとするとモーアシビの青年たちは来訪する神々でなければならない。
つまりモーアシビの青年たちは来訪神であり、ヤガマヤの女性たちは神の一夜妻であったのである。ヤガマヤが残っていた地域とは沖縄における来訪神祭祀の古層の文化を残していた地域だとみてもよい。その地域にエイサーが発展普及したのである。
3. 似せ念仏とモーアシビの再構築としてのエイサー
ヤガマヤにおけるモーアシビは近代における風俗改良運動の標的とされ、モーアシビの場所はヤガマヤからアジマー、モーへと変遷していく。教員と警官によりモーアシビは徹底的な取締りを受けるのである。徹底的な弾圧・取締りのなかで、モーアシビは社会生活の表面から姿を隠していく。
一方、近代において、土地整理事業が行われる。この土地整理事業により、私的所有権が確立され、それに基づく私有財産が発生する。発生した私有財産は継承されなければならないので、継承される「家」意識が発生してくる。その「家」意識のモデルとなったのが、位牌継承制であった。
そのため位牌継承制は近代において急速に民衆化していく。そこに祖先祭祀の需要がおこるのである。その需要を満たしたものが、モーアシビの青年たちだったのだと思われる。
「土地整理事業 近代的な土地制度と租税制度を確立するために、1899-1903(明治32-36)年実施された封建的な旧慣地制・税制の抜本的改革。旧来の農民保有地に私的所有権を認めるとともに、旧慣地租(現物納・石代納)を全国同様に定率金納地租に改め、所有権者をもって納税者とした」『沖縄大百科事典』
近代初期のころのエイサーは、現在のようなエイサー歌ではなく念仏が歌われていた。これは似せ念仏の系譜だということができるだろう。しかしモーアシビエイサーが発生すると、短期間のうちに念仏歌は短縮され、モーアシビ歌をメインとする歌に切り替わっていった。
「また、名護周辺でも明治の頃までは、エイサーの原歌である『継親念仏』が歌われており、現在のものは大正の頃に瀬底の人が広めた『毛遊び形エイサー』であることがわかった」宜保栄治郎『エイサーフォーラム』プログラム,1996年.
風俗改良運動によって取り締まりの対象となったモーアシビは、位牌継承制の民衆化により、エイサーのなかに活路をみいだしたのである。そして私たちがエイサーとイメージするものは、先ほど申し上げたように、似せ念仏の痕跡を残しながら、中身はモーアシビであるエイサーなのである。
つまり、私たちがエイサーとイメージする芸能は、中世日本から伝わった似せ念仏と沖縄の古代から伝わる基層文化としてのモーアシビが合体し再構築されたものなのである。その意味では、エイサーは近代において再構築された、新しいスタイルの芸能であるということができるであろう。
4. 連結都市圏に発生した締太鼓型エイサー
次に締太鼓型エイサーの普及発展について考えてみたい。
1945年から1955年までの10年間の間に、那覇市から浦添市、宜野湾市、嘉手納町、北谷町、沖縄市、旧具志川市と連なる地域に人口の集中が起こり、連結した都市圏が形成される。
この連結都市圏の形成は軍事基地により土地を奪い取られた人たちの集住と、軍事基地建設のために各地から流れ込んできた労働者たちの群居であった。
戦前の沖縄県は人口60万人未満で推移している(1940年国勢調査によると、沖縄県総人口は574,579人)が、そのなかにおいて都市とよべる存在は、那覇市と首里市ぐらいのものであり、あわせて8万人ぐらいの規模であった(1940年国勢調査によると、那覇市65,765人、首里市17,537人)。
それ以外は純然たる農漁村社会であったのである。その農漁村社会の住民たちが10年間というきわめて短期間に都市住民へと変貌した。これが沖縄における連結都市圏である。
この連結都市圏に集住した住民たちはシマ社会から出自したものたちであったが、この連結都市圏のなかに第二のシマ社会を形成することになった。ミクロコスモスとしてのシマ社会のなかに生きていた沖縄の人々が都市生活者となったのである。
この連結都市圏と中北部のエイサー文化圏の重なる地域に締太鼓型エイサーが発展し普及した。 第二のシマ社会は出自のシマ社会と乖離した精神的な距離の分だけ抽象的な共同体を形成することができた。
第二のシマ社会においては、群居する住民は都市住民として均質化されていった。 それと同時に産業労働者を主体として形成された都市圏だったので、産業労働に耐ええる身体の規律化が要求された。農漁村における自律した身体性ではなく、産業労働に対応することのできる他律的な規律化が果たされなければならなかったのである。
均質化と規律化を身体性として確立することが可能となったとき、出自のシマ社会を超える〈想像の共同体〉が形成されることが可能となったのである。そして想像の共同体は、自らを表象することが必要とされた。これまでの沖縄にはない、まったく新しい共同体を形成してしまったからである。
連結都市圏は、首里・那覇を中心として形成された都市圏ではなかった。そのため表象は琉球王国からの延長ではなかった。出自の異なる多彩なシマ社会の共通項を基軸に表象が形成されたのである。それがいわゆる〈沖縄らしさ〉であった。
締太鼓型エイサーとは、想像の共同体における沖縄らしさを表象するものとなったのである。均質化と規律化のなかで形成されたので、この型のエイサーはモデルとなることができた。
つまりシマという根を離れても普及するだけのモデルとしての構造ができあがったのである。 そのため太鼓型エイサーは沖縄らしさを表象するとともに、シマを超えて、そして沖縄を超えて普及発展することが可能となったのである。
【参考文献】
池宮正治「エイサーの歴史」『エイサー360°:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)
折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』(1975年、中公文庫)
宜保栄治郎「名護市世冨慶のエイサーについて」『エイサーフォーラム』プログラム(1996年)
沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)
『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』(1972年、琉球政府)
1.おきなわの社会を「構造」でとらえてみる
①沖縄の社会構造はシマ社会というミクロコスモスだ!
②沖縄における非時間性=神話的時間意識
③近代に誕生した「沖縄らしさ」
*アンリ・ルソー《眠れるジプシー女》1897年
2.エイサーをもっとおもしろく観る
①90分でわかるエイサー~エイサーの社会史~
②近代における「エイサー」という芸能の誕生
③戦後における締太鼓型エイサーの普及発展
④忍ぶ恋心を表わすパーランクーエイサー
⑤観てきたエイサー・思い出のエイサーを語り合ってみる
*1963年のエイサー・コンクール
3.伝統のかくれた意味をさぐる
①浜下りと雛祭りはどう違う?
②綱引きは友愛関係をつくるために「噛む/噛まない」をする
③女性たちが女神に変身するウフデーク
*動物の噛み合いごっこ(ハグ)
4.社会史的な視点で「沖縄」をとらえてみる
①19世紀に琉球を観察したホール・ペリー・ゴンチャロフの記述から彼らを観察する
②沖縄における死生観の変遷
③モーアシビ歌に見る近代における婚姻観の変化:自己決定から親決め婚へ
④なぜ位牌継承慣行は民衆化してしまったのか?
*縁台 1978年 伊是名島 by 小橋川共男
5.激変した戦後を社会史的につかむ
①守姉という存在
②リゾーム(根茎)という視点で沖縄の戦後社会をみる
③「第二のシマ社会」として誕生した戦後の沖縄の都市群
④地縁血縁を超えた「第三のシマ社会」の可能性
*1959年 子守する姉たち 波照間島(石垣市市史編集課:八重山写真帖)
6.絵画から女性・家族・ジェンダーを読み解く
①絵画で読み解く子どもの社会史~子供の誕生
②絵画で読み解くロマンティック・ラブ~宮廷風恋愛から恋愛結婚へ
③絵画で読み解く母親の社会史~母性愛という神話
④絵画で読み解く近代市民社会~国家と国民、誰が主体か?
⑤絵画で読み解く「老い」の描き方
⑥浮世絵に見る旅する女性
*喜多川歌麿《鏡台の前》1793年、メトロポリタン美術館蔵
7.描かれた「物語」を構造分析する
①ジブリアニメ『風立ちぬ』~戦争と新中間層
②ジブリアニメ『千と千尋の神隠し』~贈与交換
③コミック『この世界の片隅で』~親族の基本構造
*ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」
8.これからのコミュニティを考える
①「男らしさのボックス」から抜け出すために
②ヘアー・インディアンから学ぼう
*《マネッセ写本(Codex Manesse)》より「トーナメントにおける乱戦」1304-1340年頃