エイサーとシマ社会
2011.04.23 琉球風車のために
具志堅要&具志堅邦子
1.エイサーは職業的芸能民のニンブチャー・チョンダラーがシマの青年たちの芸能に変化した!
●職業的芸能民のニンブチャー・チョンダラーがいた
エイサーの祖形は、念仏踊り。それをもたらしたのがニンブチャー・チョンダラーといわれる職業的芸能民であった。彼らは半僧半俗の職業的芸能民であった。
葬式のときは念仏を唱え、ニンブチャーと呼ばれ、人形芝居をするときはチョンダラーといわれた。沖縄においては念仏踊りのひとつを「似せ念仏」という。似せ念仏のひとつがエイサーの祖形。
〈似せ〉というのは〈ニーセー〉の当て字であり、ニーセーは若衆(青年)を意味する。似せ念仏がエイサーの祖形である。
●似せ念仏の痕跡 似せ念仏系のエイサー
那覇市国場(旧島尻郡真和志村)のエイサー、南風原町喜屋武の「乞うやー(クーヤー)」、八重瀬町安里のチネーまわり(家廻り)がある。共通しているのは、酒瓶を担いで廻ること、門口で酒を乞うという門付け芸能の流れ。
●シマの青年たちにはモーアシビという場があった!
モーアシビという歌垣の場があった。モーアシビとは、〈沖縄〉のシマ社会における配偶者選択の場のことをもいう。モーとは原野のことをいう。もともとは原野のような非公開の場ではなく、アシャギとかアジマーなどの公開の場で行われた。
モーアシビへの参加年齢は、多くのシマにおいて14、5歳からの参加であり、女性は婚姻するとアシビのグループから抜ける。男性も20歳を過ぎたあたりから年寄り扱いされ、抜けていくということになっている。
モーアシビの場で歌われ、踊られたのがシマの青年たちの芸能である。 近代になって位牌継承制が普及するにしたがって、ニンブチャーが普及していく。そのプロセスのなかで、職業的芸能民たちがもたらした芸能をシマのモーアシビ青年たちがとりいれてエイサーになっていく。モーアシビをとりいれた新しいカタチのエイサーが普及発展したのは中部・北部。
●近代的エイサー
近代的エイサーはシマの芸能であること。青年たちが演じること。念仏はさわりだけで後は遊びウタ。
2.狭義のエイサーの分類と特徴
①手踊り型エイサー、②締太鼓型エイサー、③パーランクー型エイサーに分類する。
①手踊り型エイサーの特徴:ジカタのウタに踊り手がハヤシをかえす型で、太鼓は通常1個で伴奏楽器である。ウタが中心。ワンクール20~30曲ほど。手踊りは円陣舞踊。各家を訪問して庭先で踊られる。曲調が速く踊りが軽快である。
②締太鼓型エイサーの特徴:奏楽器だった太鼓が踊りだした。円陣舞踊ではなくなった。庭先ではなくてアジマーやグランドが主な演舞場になった。曲調が遅くなる。歌われる曲数も大幅に減少する。ワンクール7から8曲くらい。
③パーランクー型エイサーの特徴:タのテンポが極端に遅くなる。ワンクールの時間が長い。50分くらい。メーモーイがある。口上と演舞と退場という構成になっている。道化が独立した芸能をする。庭先で演じる。念仏ウタ以外は明治以降の創作民謡を歌う。標準語のウタが入っている。
3.似せ念仏の痕跡のうた
ニンブチャーたちの念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマ。 たとえば、〈継親念仏(ママウヤニンブツ)〉では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇ろな供養を頼む。歌は43番まである。
〈長者の流れ(チョンジョンナガリー)〉では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試す。長男、次男の嫁は拒否するが、三男の嫁は承諾す。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘ると、そこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まである。
これらの念仏歌は、現在のエイサー歌に痕跡として残っている。〈仲順流り節〉を歌うことにより、〈継親念仏〉と〈長者の流れ〉という二つの長い念仏歌を歌ったことにしているのである。 ことばには、その一節を歌うだけで長い歌を歌うのと同じだけの効果が得られるものという省略の力がある。おまじないや念仏などでもそうだが、ある一節を唱えるだけで、長い呪文や経典を唱えるのと同じ効力があるとみなされている。エイサーでも、さわりの部分だけを歌うことによって、43番とか63番まである長い歌を短縮し、省略することができた。
4.シマ社会のエイサーと第二のシマ社会のエイサー
シマ社会は沖縄の村落共同体かつては内婚率が高く、創世神話を共有するなど自律性の高いミクロコスモスを形成していた。
第二のシマ社会とは戦後短期間に形成された都市。首里・那覇の同心円的に発展した街ではなく、首里・那覇の郊外でもない新しい町。第二のシマ社会のコミュニティモデルはシマ社会。
与勝半島とその周辺諸島を除く沖縄本島中北部のシマ社会に手踊り型エイサーが普及発展する。手踊り型エイサーは固有のシマ社会と結びつき移植が難しい。
パーランクー型エイサーは同じシマ社会の構造をもっていれば移植は難しくない。締太鼓型エイサーはシマ社会を離れても移植可能。 中北部の手踊り型エイサーの盛んな地域と第二のシマ社会が重なるところに太鼓型エイサーが普及発展する。
パーランクー型エイサーは与勝半島とその周辺諸島のシマ社会で独自の発展をとげる。
5.動画鑑賞
【参考文献】
池宮正治「エイサーの歴史」『エイサー360°:歴史と現在』(1998年、沖縄全島エイサーまつり実行委員会)
折口信夫「組踊り以前」(1929年)『折口信夫全集第三巻』(1975年、中公文庫)
宜保栄治郎「名護市世冨慶のエイサーについて」『エイサーフォーラム』プログラム(1996年) 『沖縄大百科事典』(1983年、沖縄タイムス社)
『沖縄県史第22巻各論編10民俗1』(1972年、琉球政府)
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