2017年エイサー講座のコメントと質疑応答
2017年サンジチャーinゆかるひ、連続エイサー講座
第1回(5月20日 土曜日 午後3時~5時)「異類異形(いるいいぎょう)」
第2回(5月27日 土曜日 午後3時~5時)「モーアシビからエイサーへ」
第3回(6月3日 土曜日 午後3時~5時)「祖国復帰運動が産んだ締太鼓型エイサー」
第4回(6月10日 土曜日 午後3時~5時)「神話劇としてのパーランクーエイサー」
第5回(6月18日 日曜日 午後3時~5時)「僕の目線からみた青年会エイサー」
ゲストスピーカー:上間哲朗(今帰仁村仲宗根青年会前会長、認定キャリア教育コーディネーター)
進行:宜野座匠(元浦添市青年連合会副会長、会社員)
場所:BOOK CAFE&HALL・ゆかるひ 那覇市久茂地3-4-10 YAKAビル3F
第1回 異類異形の痕跡―チョンダラー
【要旨】
エイサーの祖形は、アンニャたちがもたらした「似せ念仏」だった。沖縄に渡来したアンニャとは、中世日本を漂泊跋扈した「異類異形(いるいいぎょう)」と呼ばれる「悪党」の一つであった。
「似せ」というのは「ニーセー」の当て字であり、ニーセーは若衆を意味する。つまり似せ念仏とは若衆念仏であった。 アンニャはアンギャ(行脚)の転訛であり、彼らは葬儀で念仏を唱える時にはニンブチャー(念仏者)と呼ばれ、門付け芸として人形劇を演じる時にはチョンダラー(京太郎)と呼ばれた半僧半俗の職能民だった。
【映像テクスト】
①八重瀬町安里青年会の古形のエイサー(2007年)
②うるま市勝連平敷屋青年会東組によるエイサーの余興「チョンダラー」(2005年)
安里青年会は、自治公民館前の広場で午後11時くらいまで糸満市米須から伝授した沖縄市園田の締太鼓型エイサーを踊り、日付が変わる頃に華やかなエイサー衣装から普段着に着替え、念仏系のエイサー歌を歌舞しながらシマ(集落)の家を一軒一軒訪問していく。 モーアシビの要素がほとんどないことに着目して、古形のエイサーと分類している。チネーまわり(くーやーとかやーまーい)と呼ばれるそのエイサーは、二日がかりでシマのほとんどすべての家を巡回する。深夜の来訪にもかかわらず、各家では御馳走を用意して青年男女によるエイサーを迎える。
平敷屋では奉納エイサーの後に余興がある。平敷屋青年会東組による余興の演目の一つのチョンダラー。場所は平敷屋部落のカミヤ前。
約50分のエイサー演舞が終わった後、東組の道化(ナカワチ)たちによって演じられたもの。異類異形のもっていた宗教性、芸能性、蛮性が感じられるものとして取り上げた。
【参加者からのコメントと質問(要約)】
・古形のエイサーが念仏系の歌を歌いながら集落のすべての家々を回るのは時間がかかるのに、それを現在もしているということに驚いた。
・チョンダラーが子どもたちと戯れながらも、子どもたちの安全を確保し、演舞するエイサー青年たちと子どもたちの場を作り出していた。その場面に出会ってチョンダラーに関心をもった。
・エイサーの脇役で盛り上げ役だと思っていたチョンダラーが、実はエイサーをもたらした存在だということが発見だった。
・平敷屋ではチョンダラーに選ばれることが名誉なことである。チョンダラーの歌詞を暗唱する時に厳しく指導される。チョンダラーのエンディングを一人で舞うのは、演技者としてのさらなる名誉であり、その時は恍惚感に満たされている瞬間である。
・チョンダラーは地域によって、ナカワチとかサンラー、サンダーと呼ばれ、多様性のある呼称だが、それをチョンダラーと一括りにすることに関してどう思うか。
・チョンダラーがピエロのような存在になっていることに関してどう思うか。
・「似せ念仏」の似せは、偽物(にせもの)ではなくニーセー(青年)のことなのか。
第2回 モーアシビからエイサーへ
【要旨】
土地整理事業(1899~1903)と明治民法(1898)の公布でシマ社会が激変する時代に、位牌祭祀が民衆化していく。それとともにモーアシビが禁圧されていく。そのような社会的ダイナミズムのなかで、ニンブチャー(念仏)とモーアシビ(歌垣)が合体し、新しい芸能としてのエイサーが誕生した。 モーアシビは来訪神祭祀と同じ構造をもつものだった。ニンブチャー(念仏)とモーアシビが合体することによって、祖先供養のほかに、五穀豊穣と子孫繁栄というシマの来訪神の要素が加わる。エイサーはシマに祝福をもたらす来訪神としての要素をもつ。
【映像テクスト】
①本部町瀬底エイサー(1999年)
②今帰仁村今泊青年会のエイサーと世願い(2008年)
③名護市のある青年会エイサー(1999年)
④名護市城青年会エイサー(1999年)
⑤読谷村楚辺エイサー(2003年)
【参加者からのコメントと質問(要約)】
・日本の古代史が沖縄では近代史として捉えることができる。
・エイサーには沖縄の古代性が残っていて、動画をみていて鳥肌がたった。
・今帰仁村今泊青年会のエイサーの世願い(ユニゲー)の祈りの先には海がある。
・中学校の運動会でエイサーの練習したが、読谷村楚辺のエイサーの動画をみると、羨ましくて青年エイサーをしたかった。
・宜野湾市新城の共有地は現在もシマ社会の人々が清掃したり、レクレーションで利用している。土地整理事業以前のシマ社会の慣行が今も残っている。
・青年会のエイサーには、ノーマライゼーションのシステムがある。
・知識人たちが沖縄の近代化に向けてどういう役割を果たしたのか?
・モーアシビの禁圧に対して、民衆は反乱しなかったのか?
・戦前のエイサーの衣装にも法被があったのか?
第3回 祖国復帰運動が産んだ締太鼓型エイサー
【要旨】
締太鼓型エイサーがエイサーのイメージを独占し沖縄らしさを表象する芸能になっていく要因として、①戦後に誕生した連結都市圏の中で生成したエイサーであること、②祖国復帰運動が高揚・挫折した後の沖縄アイデンティティを求める時代に生まれたがあげられる。
1950年代に誕生した旧石川市から那覇市までを含む連結した都市群に「第二のシマ社会」が形成される。この連結都市圏の北半分は、近代にエイサーを生成させたエイサー文化圏に属するものだった。この連結都市圏とエイサー文化圏の重なるエリアに、締太鼓型エイサーが生成していく。
連結都市圏は頂点(中心)のあるツリー(樹木)型の都市ではなく、頂点(中心)のないリゾーム型(根茎)の都市だった。権力や権威によるツリー型のコミュニティ秩序ではなく、第二のシマ社会というリゾーム的な秩序の中で、締太鼓型エイサーという新しい芸能が形づくられていく。
祖国復帰運動は米軍基地撤去を求め、異民族支配に反対する運動だった。そのため米軍基地撤去と日本人になるというナショナリズムとがセットになった運動だった。
1960年代後半に米軍基地を残したままの復帰になることが明らかになるにつれ、日本人になるというナショナリズムは霧散し、沖縄アイデンティティの確立と表現が求められるようになっていく。この1960年代後半に全島エイサーコンクール(1956-1976)で優勝を重ねるようになっていくのが締太鼓型エイサーだった。
締太鼓型エイサーはシマを離れた第二のシマ社会で生成したエイサーであり、沖縄アイデンティティの確立が求められる時代に型を完成させたエイサーであった。そのため締太鼓型エイサーは都市に第二のシマ社会を形成することのできる芸能であり、沖縄らしさを表象することのできる芸能となった。
【映像テクスト】
①園田エイサー道ジュネー(2007年)
②沖縄市山里・諸見里・園田・久保田のエイサー(2003年)
【参加者からのコメント(要約)】
・沖縄の連結都市圏に20年住んでいるが、連結都市圏がなければ住み心地の悪い沖縄だったかもしれない。連結都市圏は価値観が多様なリゾームなので、けっこう住み心地が良い。
・国道330号線でバスの通行するそばでエイサーを踊るのは、地元ではこれが普通で当たり前のことである。12時くらいからエイサーオーラセー(エイサー喧嘩)があり、それを見るのが楽しみである。
・復帰運動の中で日本人化を目指していたことを再確認した。現在は沖縄アイデンティティをどう確立するのかが自分にとっての課題になっている。
・沖縄は時代ごとの社会変動が激しく、それが世代間断絶を生んでいる。エイサーについて話し合うことは、世代間断絶を乗り越える良いテーマになると思う。
・自分の息子が某市のエイサー団体で踊っていた。そこは山里エイサーの型で、空手の型の手踊りがかっこいい。(受講者に某青年会のリーダーがおり、互いに奇遇を喜ぶ)
・本土の小中学校の吹奏楽に沖縄の音楽を演奏させると、自然にエイサーの動きっぽくなる。賞などをあげて沖縄に呼んだりすると、「よさこいそーらん」のように盛り上がるかもしれない。
・自分はエイサーを、笑顔のエイサーと笑顔じゃないエイサーに分けている。手踊り型のエイサーは笑顔のエイサーであり、太鼓型やパーランクー型は笑顔じゃないエイサーということになる。
【参加者とのQ&A】
Q. リゾームと1956年以降の「島ぐるみ闘争」との違いは何なのか。シマ社会が独立性の高い社会だとすると、島ぐるみという闘争は矛盾するのではないのか。
A. テーマが米軍基地撤去というシンプルなものだったので、シマの差異やリゾーム内での差異を超えることができた。その当時は5万人規模、10万人規模のデモが頻繁に行なわれ、那覇の街を埋め尽くしていたので、島ぐるみという一体感をもつことができた。
Q. 地域文化の差異によってウチナーグチという表現に抵抗感を持つ人がいる。ウチナーグチの標準語化についてどうとらえたらいいのか。
A. ウチナーグチ(沖縄語)という標準語的な表現への抵抗感は根強く、シマクトゥバ(シマの言葉)という表現が用いられるようになった経緯がある。沖縄アイデンティティは共通語励行のような言語の強制をともなわない。
第4回 神話劇としてのパーランクー
【要旨】
パーランクー型エイサーは、沖縄本島の与勝半島とその周辺島嶼部で生成発展してきたエイサーである。モーアシビ(手踊り)型や締太鼓型とは異なり、パーランクー型エイサーは劇場的エイサーである。
時間軸ではメーモーイ→入場→演舞→狂言→退場という構成をとることが多い。空間軸では静的な男女の手踊り、禁欲的なパーランクー叩き、道化の乱調に分かれポリフォニック(多声的)な構成となっている。
モーアシビ型や締太鼓型がストレートな恋心を表現するのに対して、パーランクー型エイサーは忍ぶ恋心を表現する。 忍ぶ恋心や禁じられた恋は近代の那覇で誕生した雑踊(ぞうおどり)や沖縄芝居の中で表現される。
パーランクー型エイサーは時代の最新流行を取り入れて形成されたエイサーだった。 エイサーの生成期である大正年間まで、沖縄の物流は陸路ではなく海上交通を中心としていた。与勝半島とその周辺島嶼部は沖縄本島東回りの海上交通をほぼ独占していた。そのため時代の最新流行を取り入れることが可能な地域だった。
ほとんどのパーランクー型エイサーには標準語歌詞の歌が入っている。これらは祖国復帰運動の痕跡である。祖国復帰運動が高揚した1956年から1966年までの全島エイサーコンクールで優勝したのは、ほとんどがパーランクー型エイサーだった。
パーランクー型エイサーは時代の最新流行を取り入れて形成されたエイサーであるにもかかわらず、新しさではなく、古式ゆかしい伝統的な趣きを感じさせるエイサーとなっている。
このパラドックスは、パーランクー型エイサーが、時代の最新流行を取り入れることが可能でありながら、古層の文化(神話的思考)の色濃いエリアに生成したことによって成立する。
パーランクー型エイサーは雑踊、沖縄芝居という舞台芸能の要素を取り入れながら、それを舞台ではなく地上(庭)で演じる。舞台芸能から庭の芸能へという芸能洗練化の逆コースをたどるとき、そこに神話的思考が働き、エイサーは神話劇の趣きを湛えるようになるのだといえる。
そのためパーランクー型エイサーは、モダン(近代的)な様相にあふれるエイサーでありながら、あたかも神話劇が演じられているかのような時空に観衆を誘い込む。
【映像テクスト】
①うるま市比嘉エイサー復活の公開演舞(2000年)
②うるま市屋慶名エイサー(2004年&2003年)
③うるま市平敷屋エイサー(2004年)
【参加者とのQ&A】
Q. 沖縄本島東回りのコースを独占した山原船(やんばるせん)は、ウミンチュ(漁師)だったのか、交易だったのか。
A. ウミンチュではなく交易としての海上交通の担い手です。
Q. 神話的というのはコスチュームのことか。
A. コスチュームではなく、日常的な時間が止まるという感覚。演劇性だけでは解釈つかない古い感覚を感じさせる。歴史的思考ではなくて、始原の時間意識を感じさせる。民話は世界がすでに始まったものとして語られるが、世界がここから始まるという感覚。それが神話的という言葉を用いた理由である。
Q. オーラルカルチャー(口承文化)が残っている地域なので神話的思考が残っているのではないのか。
A. 文字社会では文字で記されたものから世界が始まる。オーラルカルチャーでは具体的なものから世界が始まる。オーラルカルチャーでは神話的次元に時計の針を戻す力がある。
Q. 神話的思考という点では、アイヌのユーカラの世界と通じるものを感じる。
A. 沖縄は12世紀頃に本格的な農耕社会に入る。歴史的にはつい最近まで狩猟採集社会であり、アイヌやアボリジニなどの神話的世界と通じるものがある。
Q. 高度な道具のないおばあたちでも、イノー(礁湖)で海藻を採ったり蛸を捕ることができる。狩猟採集的なイノーの生産力の高さが、神話的思考を身近に残している原因なのではないのか。
A. 戦前まで、遠浅のイノーには干満の差を利用したナガキ(魚垣)があった。石垣市白保のウミンチュが昔は海老を足で踏んで捕えていたという話をしていたが、ナガキではそのような漁が可能だったと思う。
Q. 宮古のモーアシビの歌にはストレートな歌詞が多く、石垣には秘めた恋心を歌った歌が多い。いままで疑問に思っていたが、今日の講座で腑に落ちた。
A. 八重山芸能は首里文化の影響をストレートに受けている部分がある。宮古は首里文化をそれほど受け入れていないように思われる。
A. 八重山でもシマ社会と士族社会では文化が違う。両方の文化が融合して現在の文化ができあがるが、地域によって融合のグラデーションが違うと思われる。(司会)
Q. 激しい動きを表現するために、太鼓型でパーランクーを使用した例もあるのでは。
A. 成立のプロセスが異なるので、そのような例はないと思う。与勝半島とその周辺島嶼では、那覇の舞台芸能を見たことによりパーランクー型エイサーを創ったのではないだろうか。
A. 創作エイサーでは締太鼓の代りにパーランクーを使うケースもある。学校エイサーではパーランクーを締太鼓代わりに使っている。(会場より)
Q. 自分は宮城島の出身だが、年輩の方たちを取材していると、比嘉エイサーの出現に衝撃を受けていたようだ。年輩の方たちは最初は質問に答えないが、親しくなるとしゃべるようになる。
A. 70代、80代の方たちに取材すると、10年、20年以上前には朝からそこらの海で魚を取って朝食で食べていたという話を聞く。取材してもラポール関係がないとなかなかしゃべらない。(会場より)
第5回 ぼくの目線から見た青年エイサー
テーマ
青年会のエイサーは、沖縄社会にとっての無限の宝であるともいえるが、多くの課題をもつ現状にもある。エイサーにほれ込んだ青年たちの話を共有して、エイサー青年たちが生きやすい社会を考えていく。
ゲストスピーカー:上間哲朗、1983年生まれ。今帰仁村仲宗根生まれ。今帰仁村仲宗根青年会前会長。認定キャリア教育コーディネーター。
司会・進行:宜野座匠、1981年生まれ。元浦添市青年連合会副会長。会社員。
彼らとの出会い
エイサー講座の最終回には青年会OBに「ぼくの目線から見た青年エイサー」を今帰仁村仲宗根青年会前会長の上間哲朗さんに語ってもらった。進行も青年会OBであり、エイサー青年の育成と交流を県内・県外・国外と幅広く企画している浦添市の宜野座匠さんにお願いした。お二人にまるごと任せた。
私が上間さんを知ったのは去年。その後、彼とはFBで繋がり、彼の投稿から彼の性格や仕事を知り、彼は「語れるエイサー青年」だと確信した。宜野座さんを知ったのは、彼がエイサー講座2回目に上間さんと受講しに来た時だ。 私は、上間さんに、4月末にエイサー講座へのゲストスピーカーを依頼し、宜野座さんには、エイサー講座4回目が終わってから依頼したのだ。即、快諾を得た。私のキャスティングは大成功だった。予想以上であった。
私たち世間は、エイサー青年のイメージを修正せねばならないであろう。彼らは地元愛が強い。しかし地元に固執しているわけではない。縦横無尽に駆け巡っている。
彼らはまるでニンブチャーたちのワイルドさと、モーアシビをエイサーに変換した青年たちの独創性と自由さをもって、現在に存在しているのだ。
上間さんのトークと動画はドキュメンタリー番組を見ているようであった。しかしそれはゼッタイにテレビ局には作れないであろう。なぜなら、当事者であり演舞者であり、沖縄の社会問題をもって作成しているからである。
何しろ、彼は7年前に動画を撮っているのである。それはモーアシビエイサーの仲宗根青年会がパーランクーエイサーを導入するにあたり、糸満市大里青年会から教えをいただくところからあるのだ。 その動画は価値が高い。私は、その動画を説明したくない。それは彼のトークに耳を傾けた人だけが見れるものであることがいいと思うからだ。
出会うことのないはずの今帰仁村仲宗根の青年たちと糸満市大里の青年たちが、エイサーの伝授で出会っていく。それは近代社会的な交流ではない。近代の罠を乗り越えるポストモダンな交流なのだ。 エイサー講座最終回は、私たちにエイサー青年イメージの修正を迫った。
【エイサー5回目の質疑応答要旨】Qは質問者、Uは上間哲朗、Gは宜野座匠
Q. やんちゃしている若者は青年会に入るのだろうか。
G. 昔は飲酒、喫煙が目的で青年会に加入する未成年者もいたが、現在の自分たちの青年会では未成年者に飲酒、喫煙はさせていない。今はやんちゃな若者だけではなく、小学生、中学生にフォーカスして青年会への加入を勧めている。
Q. 仲宗根青年会は手踊り主体のエイサーからパーランク型エイサーに変化しているが、パーランクー型を採り入れることによって手踊りエイサーに変化はあったのだろうか。
U. パーランクー型エイサーに変化したのではなく、手踊り型エイサーにパーランクー型エイサーを追加したのだと思っている。パーランクー型エイサーをすることによって、手踊り型エイサーが楽しいものになっている。手踊り型エイサーを残すための手段としてパーランクー型エイサーを導入した。
Q. エイサーをしていて一番うれしかったことは何ですか。
U. みんながいつの間にか、そして確実に成長していること。人材育成の喜びがある。
G. 一回り違う世代の人と交流できること。
Q. 子ども会と青年会の連携はどうなっているのか。
U. 小学生には子ども会があり高校生には青年会があるが、中学生にはそれにあたるものがなく、抜けてしまう。そのため中学生でドロップアウトするケースが多い。
Q. 子どもたちが忙しくて地域活動に参加できないケースもある。学校に問い合わせても、地域活動に参加する余裕がないとの返事があった。
U. 学校が忙しいのはわかるが、来る子は部活をやっていてでも来る。
Q. 浦西エイサーは新興住宅地のエイサーなので、他の地域にないような苦労があるのではないのか。
G. 人数を多くしようとは考えなかった。それよりも地域で長く活動できる人を育てようと思った。その地域に核がなくとも、長くやると核ができていく。何十年先までもエイサーが続くように考えている。自分のシマだけを見るのではなくて、沖縄市など他の地域との交流を通して人材を育てている。
(文責:オフィス・サンジチャー代表:はこべ るり)
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